おきたまラジオNPOセンター・ひとりごとダイアリー

 

ドキュメンタリー映画石巻市立湊小学校避難所関連活動

石 巻 市 訪 問 記

 

2013年10月5日(土曜日)宮城県石巻市の天気:曇り一時小雨

【石巻市訪問記】
 私が宮城県石巻市を訪れたのは2011年4月22日でした。
 私がドキュメンタリー映画“石巻市立湊小学校避難所”山形県上映会を開いたのは2012年11月23日〜12月8日でした。

 私はもう一度石巻市を訪問したいと考えていました。それは単に石巻市における(復興の)現状を自分の目で確かめるだけでなく、映画に出ていた湊地区の人たちと交流することができれば、という思いがあったからです。
 それで、私が少し落ち着いたと感じることができるようになった今年(2013年)の春、映画“石巻市立湊小学校避難所”の監督・藤川佳三さんと連絡を取り合いました。湊地区の人たちと交流するには藤川監督のコーディネートがあった方が良いと思ったからです。それは藤川監督も同じ考えでした。
 藤川監督からは「石巻市へ行く機会はこれからもありますので、それを基にスケジュールを調整しましょう」という話をいただきました。しかし、藤川監督はお忙しいのでしょう。いろいろな仕事が計画されている話をされていたからです。

 いつの間にか、時間が過ぎました。私は「今の石巻市を自分の目で観てみたい」という思いが強くなり、「とにかく石巻へ行ってみよう」と決心しました。
 「決心」と言いますと、大げさな感じもしますが、私としては「石巻市へ行くには、それなりの理由や自分自身の意思がなければならない」と考えていました。
 中でもこだわったのは、私が石巻市へ行くことで、石巻市の人たちに迷惑をかけてはならない、ということです。これは映画“石巻市立湊小学校避難所”からも考えさせられたことです。被災地での支援活動(ボランティア活動)の中には、支援者(ボランティアの人たち)の勝手な思い込みや都合による(支援)活動が行われたこと承知していたからです。
 そう考えますと、私が2011年4月22日の“だがしや楽校@石巻市立湊小学校”に加わることができたことについては、感謝しなければならないのであります。そういう意味で、「石巻市の人たちに恩返しをしたい」という思いもありました。

 一方で、私はきょうの石巻市訪問について、事前に調査することや、時間的な計画を立てることはほとんどせず、いわゆる「ぶっつけ本番の訪問」としました。なぜなら、訪問中は何が起こるかわからないからです。どんな出会いがあるかもわかりません。
 これって、優柔不断で、とってもいい加減に見えますが、臨機応変に対応できることで、実りある訪問にすることができる、と考えたのであります。
 石巻市を訪問したら、「あるところ」に行けば地元の人と交流できるのではないか、ということは以前からわかっていました。それで、その「あるところ」を訪問する時間だけは、大ざっぱにですが、決めました。その時間とは、夕方の5時以降です。
 それ以外は、行き当たりばったりの訪問です。

 果たして、私の石巻市訪問はどうなったのでしょうか。なお、きょうの石巻市訪問には家族(妻)も同行し、私をサポートしました。

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 仙台市を過ぎて、午前10時すぎには三陸自動車道に入りました。2011年4月22日の午前8時台は大渋滞だった三陸自動車道でしたが、きょうはまったく渋滞なしです。スムーズな走行です。石巻には思ったより早く着きそうです。
 三陸自動車道では片側2車線化の工事が進んでいます。この工事が完了すれば、さらに移動は楽になります。一方で、工事がいつ終わるのか・・・という不安もあります。今のご時世を考えますと・・・。
 最後のパーキング・矢本パーキングで休憩です。2011年4月22日も最後に休憩した場所です。あの時は、ここで、NHK山形のスタッフから「山口さん、湊小学校まで案内していただけませんか」と依頼されたこともあり、記憶に残っている場所です。
 矢本パーキングはトイレだけが設置されているパーキングです。あの時と違うのは、無料休憩施設“イートハウス”(右の写真)が開設されたことです。食べるボランティアということで、ここで販売されているものを購入しますと、復興支援につながるようです。

 矢本パーキングを出ますと、石巻市を中心にした平野部が広がります。右手奥には航空自衛隊松島基地が見えます。やがて石巻の市街地が見えてきました。やや車の量が増えてきた感じです。天気は曇りですが、雨が降る様子はありません。なんとかなりそうです。

 石巻河南インターチェンジで三陸自動車道(矢本石巻道路)を出ます。
 インターチェンジ周辺(石巻市蛇田新金沼周辺)は、大型ショッピングモールをはじめ、大型ショッピング施設がひしめき合っているところです(右の写真)。食料品の大型スーパーだけでも、イオン・イトーヨーカドー・ヨークベニマルと3つもあります。ほかにも家電量販店が2つ、さらにはホームセンターなどもあります。1ヵ所にこんなの集中して良いものか?、中心商店街との関係は?など、余計なことを考えてしまいます。
 一方で、ここは津波が到達しなかったところです。だから、これだけのショッピング施設があるのでしょう。2011年4月22日も、ここは普段と変わらない風景でした。

 私たちは、片側2車線道路(石巻バイパス)を南東そして東へ向かいます。蛇田の交差点で橋を渡り、石巻線の陸橋を越えます。中里地区に入ってきました。このあたりは、ファミリーレストラン・ファーストフード店・スーパーなどが建ち並ぶ郊外型店舗が連なっているところです。

   

 津波はこのあたりまで到達し、2011年4月22日は、ほとんどの店が休業状態でした。店内にまで津波が入った店もあり、復興にはしばらく時間がかかると思った場所でした。
 きょうは、まったくその面影なしです。どこにでも見られる郊外型の風景でした。ここだけ見れば、復興したと言えます。

 最初に訪ねたのは、石巻市立住吉中学校です。石巻バイパスの北側・東中里3丁目にあります。
 住吉中学校には、今でも湊小学校の子どもたちが通っています。映画では、2011年5月9日・授業再開のシーンがあります。子どもたちは、バスに乗って、住吉中学校へ通いました。住吉中学校の正門前で子どもたちはバスを降り、中学校の校舎へ向かいました。
 私たちは、子どもたちがバスを降りた正門前にいます(下の写真左)。早くも、なんとも言えない感慨をおぼえます。

  

 校庭からは部活に励む中学生の声が聞こえてきました。
 その校庭の南にプレハブの校舎がありました。この校舎で、今でも湊小学校の子どもたちは学んでいるのでしょう。南側からも、住吉中学校(下の写真左)及び湊小学校のプレハブ校舎(下の写真右)を拝見しました。プレハブ校舎内には一輪車も見えました。

  

 それにしても、湊小学校の子どもたちは、いつまで住吉中学校に通わなければならないのでしょうか。来年(2014年)3月まで、という話を聞いていますが、本当でしょうか。映画に出てくるYちゃんは、ここには通っておりません。

 住吉中学校をあとにして、さらに東そして南東方向へ向かいます。まもなく橋です。石巻大橋です。下を流れるのは旧北上川です。2011年4月22日を思い出す景色です。(下の写真左)

  

 石巻大橋を渡りきって、すぐに右折です。そして湊地区に向かいます。(上の写真右)道路は旧北上川沿いに南西そして南へ向かいます。2011年4月22日には道路両側にあった大量の瓦礫はなく、きれいになっています。しかし、先に進むにつれ、空き地のようになっているところが目立ちます。空き地のような場所では、雑草が生えています。復興途上であることを実感します。
 八幡町1丁目の交差点(下の写真左)に差し掛かりました。きょうは、ここで右折します。日和山公園に向かうことにしたからです。2011年4月22日は、湊小学校を往復しただけですので、石巻市内を巡るのは、きょうが初めてです。再び旧北上川を渡ります。内海橋です。

  

 中州では左手に石ノ森漫画館(上の写真右)が見えます。実物はかなり大きいです。きょうも来訪者がかなりあるような感じで、スタッフの人たちの姿もありました。橋を渡りきりますと、中央2丁目です。この一角にある“石巻まちなか復興マルシェ”は、後ほど訪問することにします。
 このあたりは石巻市の中心商店街のひとつです。きょうは、かなり人が出ていて、にぎわっています。何かイベントでもやっているのでしょうか。これも後ほど確認することにしました。

 とりあえず、日和山公園に向かいます。石巻小学校の脇を通り(下の写真左)、車1台分の道幅しかない山道(下の写真右:両側は住宅が並んでいます)を登ります。

  

 日和山公園近くまで住宅があります。標高60.4メートルの日和山公園です。津波からは免れた場所です。そして、日和山公園に着きました。
 駐車場にはかなりの数の車が停まっています。ナンバーを見ますと、日本全国津々浦々です。札幌から鹿児島ナンバーまでありました。観光なのか、支援のためなのか、ほかに目的があるのかはわかりませんが、今の石巻が置かれている状況を感じます。それが、良い意味で注目され、復興につながれば・・・と思うのですが、果たして、どうなのでしょう。

 日和山公園では、はじめに旧北上川・河口付近を望みます。(下の写真左)テレビなどでよく紹介される風景です。河口に架かるのが日和大橋です。

  

 日和大橋の下を潜る船舶を撮影できました。(上の写真右)

  

 河口の東側(上の写真左)では建物がたくさん見えるものの、よく見ますと、雑草に覆われた空き地があり、瓦礫も見えます。
 河口の西側(上の写真右、下の写真左・右)はさらに厳しいです。雑草に覆われた空き地が広がっています。望遠で撮影しますと(下の写真右)、瓦礫や自動車の残骸がたくさん見えます。これが現実です。

  

 公園内を移動します。東側から北側を望める場所への移動です。
 真っ正面に見えてきました。石巻市立湊小学校です。2011年4月22日以来、自分の目で見る湊小学校です。下の写真左は、映画で撮影した場所とほぼ同じところから、湊小学校とその周辺を撮影したものです。

  

 公園には、震災前に撮影した湊小学校とその周辺の写真がありました。上の写真右がその写真です。今となっては貴重な写真です。
 震災前には、湊小学校周辺にもビッシリ建物があったことがわかります。しかし、現在は空き地のようになっている場所が目立ちます。湊小学校の手前には、陸に打ち上げられたままの船舶が見えます。このように手付かずになっているところが、まだまだあるのです。
 でも、山の姿は変わりありません。一度見た湊地区周辺の山々の姿は、今でも目に焼き付いています。

   

 カメラを少しずつ左側(北側)に振ります。湊小学校近くに、2011年4月22日には無かったコンビニ(上の写真右の左側)ができました。でも、空き地のような場所が目立ちます。

  

 先程通った八幡町1丁目の交差点付近(上の写真左・右)も空き地のような場所が目立ちます。

  

 上の写真左は、中州(中瀬)の一角にある石ノ森漫画館です。
 その中州(中瀬)(上の写真右)は、ほとんどが空き地のようになっています。ここには映画に出ているOさんの造船会社がありました。映画では、Oさんと床屋のSさんがこの場所を訪れるシーンがあります。

 旧北上川の西側(右の写真)には、このあと訪れる“石巻まちなか復興マルシェ”などが見えます。このあたりから左方向へ石巻駅付近まで続き地域が、石巻市の中心市街地です。

 日和山公園から見た石巻は、復興が進んでいるようにも見えて、実はほとんど進んでいないのではないか、と感じました。その中で、全国津々浦々の車のナンバーを見ますと、さらに複雑な心境になってしまいます。

 ここまで望遠撮影した写真でご紹介しましたが、中心市街地から湊小学校までの、全体の風景写真をご紹介します。

  

 日和山公園をあとにして、市街地中心部へ向かいます。

  

 途中、急勾配の下り坂を恐る恐る下りました(上の写真左・右)。今の季節は良いですが、冬になったらどうするのでしょう。石巻では、道路は凍結しないのでしょうか。そんなことを考えている内に“石巻まちなか復興マルシェ”に着きました。

  

 “石巻まちなか復興マルシェ”は、石ノ森漫画館から旧北上川を挟んで北西へ約100メートルのところに位置します。ということは、このあたりにも津波が襲来しました。“石巻まちなか復興マルシェ”の周囲を見ますと、あの日以来手付かずのままの建物もありますし、解体工事を始めたばかりの建物も見られました(上の写真左・右)。なんとなくですが、2011年4月22日に感じたあの臭いがよみがえってきました。でも、その隣りは観光バス用の駐車場(下の写真左)です。

  

 “石巻まちなか復興マルシェ”の店舗は仮設のような感じです。
 旧北上川を中心に栄えた石巻。江戸時代には、仙台藩の買米制度による米を江戸へ輸送する中継地として栄えたそうです。ですから、“石巻まちなか復興マルシェ”がある旧北上川沿いのこのあたりは、石巻の中心と言えるのです。しかし、あの津波で、長い歴史をもつ中心市街地は、一瞬のうちにおよそ7割が全壊し、瓦礫の山と化しました・・・とのことです。
 “石巻まちなか復興マルシェ”をそんな厳しい場所にオープンさせた石巻の人たちのこだわりも感じます。店舗は、石巻元気復興センター、全日食きむら、珈琲工房いしかわ、石巻ぎょうざ道場、石巻うまいもん屋の5つです。

  

 “石巻まちなか復興マルシェ”では、コンサートなど様々なイベントも行われています。
 きょうは、特にイベントはなく、比較的静かですが、観光バスが駐車しているなど、次々に人が訪れていました。私たちは、石巻うまいもん屋で海鮮丼をいただきました。美味しかったです。
 ただ、“石巻まちなか復興マルシェ”全体を見た場合、もう少し石巻らしさが出ていると良いのではないか、という気がしました。何が石巻らしさかは私もわかりませんが、逆にわからないままだったことに課題がありそうです。

 “石巻まちなか復興マルシェ”をあとにします。
 “石巻まちなか復興マルシェ”の北側の道路、つまり内海橋から西へ続く道路(国道398号線)で、日和山公園に向かう際に通った道路です。歩いてみますと、アーケードはあの日のままであることがわかります。(下の写真左)

   

 さらに西へ歩きます。あの日のままの建物(上の写真中)、建物があったことはわかりますが何もないところ(上の写真右)など、よく見ますと、津波の凄まじさを感じることができます。その一角では、物産展(下の写真左・右)が行われていました。テントが石巻の中間支援NPOのものであることに目が行ってしまいました。

  

 さらに西に歩きます。アイトピア通り(上の写真左・右)に来ました。ここは石巻の中心商店街のひとつです。たくさんの人でにぎわっています。特に子どもさんの姿が目立ちます。売り子さんのようなことをやっているお子さんたち(下の写真左)が歩いています。ユニセフハウスというブースでは、子どもたちが遊んでいます(下の写真右)。

  

 それで、さらに少し歩いてみますと、声をかけられます。どこかで見た顔です。それもそのはずです。鶴岡の“だがしや楽校”仲間の阿部さん(下の写真左)なのです。突然のことで、チョー・ビックリです。Ynさんもおります。阿部さんは、映画“石巻市立湊小学校避難所”山形県上映会では事務局して私を支えてくださった人です。

   

 店舗だったと思われる建物の中で、“だがしや楽校”が開かれています。中では紙芝居の中村さん(上の写真右)もいました。ほかにも、スライムなどの遊びが行われていました。
 それでは、どうして、ここで“だがしや楽校”を開いたのでしょうか。阿部さんに聞きました。また、開かれているイベントについても、主催者スタッフ及びユニセフ関係者にインタビューしました。

 このイベントは“子どものまち・いしのまき 〜子どもが主役の子どものまち〜”と言います。
 主催は、子どものまち・いしのまき実行委員会です。
 共催は、子どものための石巻市民会議、石巻専修大学復興共生プロジェクト、山形大学地域教育文化学部・SCITAセンター、一般社団法人ISHINOMAKI2.0、一般社団法人プロジェクト結コンソーシアム、(株)街づくり、まんぼう、TOKYOPLAY、特定非営利活動法人石巻復興支援ネットワーク、特定非営利活動法人コドモ・ワカモノまちing、特定非営利活動法人にじいろクレヨン、特定非営利活動法人日本冒険遊び場づくり協会、特定非営利活動法人ヒューマンフェローシップです。私も承知している団体名がいくつかあります。
 協力は、公益財団法人日本ユニセフ協会、(株)竹中工務店、アイトピア商店街振興組合、立町大通り商店街振興組合、ことぶき町通り商店街、みらいサポート石巻、ピースボートセンターいしのまき、こども∞感ぱにー、特定非営利活動法人石巻スポーツ振興サポートセンター、一般社団法人KITT、特定非営利活動法人冒険あそび場-せんだい・みやぎネットワーク、ニコニコこども基金助成事業です。

 イベント名から内容が想像できる方もおられるでしょう。
 参加したい子どもたちは、受付をします。次に入国手続きします。入国手続きでパスポートとマギー(エコマネー)を受け取ります。
 私もパスポート現物をいただきました。表紙の裏は身分証明書です。次のページは入出国管理です。入国時・出国時にハンコを押します。
 その下に“まちの三箇条”が書いてあります。“まちの三箇条”とは、何でも自分でやってみよう(失敗なんかこわくない)、新しいアイディアを出そう(答えはひとつじゃない)、困ったときは聞いてみよう(はずかしくなんかない)の3つです。
 次のページからは仕事の記録を書く欄です。
 ハローワークで仕事を探します。そして、それぞれのお店で、店員としてお仕事をします。お仕事が終わったら、お店の人から仕事の記録と給料額をパスポートに書いてもらいます。銀行に行き、パスポートを見せて、お給料をもらいます。お給料はエコマネーのマギーです。そのマギーでお買いものをしたりして楽しみます。
 余ったマギーは銀行に預けます。来年の“子どものまち・いしのまき”のために貯金します。

 このような取り組みは全国各地で見られます。ここ石巻の場合は、石巻の復興を考えた場合、将来を担う子どもたちの役割が大きいです。そこで、子どもたちに、社会の仕組みやまち(石巻)のことを知ってもらう体験の機会をつくったのです。
 私の関係者へのインタビューによりますと、共催として名前が挙がっているたちが実行委員会を結成し、地元商店街の人たちも中心になって始めた取り組みで、今回が2回目です。
 今日(10月5日)と明日(10月6日)の2日間開催です。明日はアイトピア通りを歩行者天国にして、ストリートパーティーを開きます。
 2つある受付の1つでは、午後2時頃までに300名近くの子どもたちが受け付けしました。昨年が2日間で約1000名だったそうで、このペースでは、今年も同じくらいの子どもたちが参加しそうです。昨年は「2〜300名の子どもたちが参加すれば良い」と思っていたそうで、良い意味で事前の予想が覆りました。大きな反響があったのです。

 実行委員会には2人の副会長がおります。その内のひとりが佐藤慎也氏(山形大学地域教育文化学部)です。その佐藤慎也さんから声がけがあり、阿部さんたちによる“だがしや楽校”が参加することになったのです。
 “だがしや楽校”では、紙芝居のほかに、スライムなどの遊びが行われていました。入口では、ポテトチップス販売のお仕事がありました。とてもにぎやかです。

   

 阿部さんは「佐藤慎也さんから声がけがあったのは最近のことで、準備もあまりできませんでした」と打ち明けました。それでも対応する阿部さんには頭が下がります。なんでも鶴岡出発は午前5時だったそうです。

 私は1時間あまり“だがしや楽校”を中心に“子どものまち・いしのまき”を拝見・取材しました。また、このような取り組みをあちこちで見ている阿部さんにも感じたことをお聞きしました。阿部さんは「大人は口出しをしないとのことですが、ごく一部でしょうが、口出しする大人がいました」と話されました。このあたりは、今年が2回目の“子どものまち・いしのまき”です。継続することで、理解が進み、解決していくのではないか、と思います。

 私は、子どもたちの元気で明るい声が飛び交うことで、まちはこんなに活気付くんだ、と実感しました。後日ですが、私は幸いにも、佐藤慎也さんから直に“子どものまち・いしのまき”について、実際に拝見・取材して、気になったことを中心に、いろいろお聞きすることができました。
 “子どものまち・いしのまき”では、石巻専修大学の先生たちや学生さんたち、そして石巻の高校生たちが、がんばっていました。行政組織を担っていたのです。具体的には、受付から仕事探しまで及んでいました。仕事探しでは、子どもたちのために、新たな仕事作りまで取り組みました。このように、学生さんたちや高校生たちのがんばりが“子どものまち・いしのまき”を支えていると言っても過言ではありません。
 佐藤慎也さんからこのような話をお聞きした時に思ったのは、このことが当日わかることができれば、ということです。確かに“子どものまち・いしのまき”は子どもたちが主役です。しかし、そこには子どもたちを支える地域の、いろんな世代の人たちがいます。子どもを主役にするには、支え方がとても大切・重要になるのです。関係者へのインタビューから、このことについての答えがありませんでした。それがチョッピリ残念に思いました。
 地域の、いろんな世代の人たち「支え」は、石巻市民の「意思」となり、「復興」にもつながります。

 このレポートの最後にもご紹介しますが、この日の石巻訪問で強く感じたのは「石巻市としての意思(方針)が見えない」ことです。“子どものまち・いしのまき”は、それを解決するためのヒントやきっかけになるかもしれない、そんな可能性を感じました。

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 思わぬ展開にちょっと疲れましたので、ここでひと息入れることにしました。それで、石巻河南インターチェンジ周辺に戻り、大型ショッピングモールを覗くことにしました。
 それにしても大きなショッピングモールです。山形市のショッピングモールより大きいです。中は大勢の人です。凄いです。カフェでひと息つきました。ただし、妻の目も鋭いです。大きい割には、個性的なお店は少ない感じです。
 ショッピングモールを出ます。片側2車線の内、1車線のみ渋滞です。石巻河南インターチェンジから三陸自動車道に入る車です。右折なので渋滞です。つまり、ショッピングモールがにぎわっていたのは、地元石巻からの人だけでなく、周辺地域からのお客様も数多く来ていたのです。

 再び石巻の中心部へ向かいます。今度は石巻バイパスを途中で外れ、石巻駅へ向かうことにしました。石巻バイパス・石巻線の陸橋手前・山下清水町の交差点を右折し、南東に向かいます。仙石線のガードを潜ります。片側一車線ですが、やや細い道路です。にぎやかな感じもしません。
 清水町一丁目の交差点から道幅が少し広くなりました。国道398号線に入ったのです。まもなく駅前です。(下の写真左で)左手にピンクの建物が見えます。石巻市役所です。市役所とは思えない感じです。それから思ったのは市役所が小さいことです。現在の石巻市役所は、有り余る業務を抱えているはずです。この広さで賄いきれるのでしょうか。ちょっとどころか、かなり心配になりました。

  

 石巻駅前の交差点に差し掛かりました。(上の写真右で)アーケードに“マンガロード”の文字が見えます。交差点を左折します。(下の写真左で)正面が石巻駅です。ロータリーを回って、(下の写真右は)今度は石巻駅を背にした風景です。

  

 石巻駅前、目立ったのは、チェーンの居酒屋ばかりです。ここでも石巻らしさを感じることができません。チェーンの居酒屋はあって良いです。問題はチェーンの居酒屋ばかりであることです。駅周辺で、石巻らしいお土産を買うことはできるのでしょうか・・と思ってしまいました。

 石巻駅前の交差点を左折し、国道398号線をさらに東へ向かいます。アーケードがある商店街です。しかし、申し訳ありませんが、シャッター通りとご紹介するしかありません。
 正直に申し上げます。石巻河南インターチェンジ周辺の大型ショッピング街と、中心商店街の差があまりにも大きいです。米沢も中心商店街についてはいろいろ言われていますが、石巻はそれ以上に深刻です。このあたりもかなりの高さの津波が到達しています。しかし、それのことを考慮しても・・・。
 市役所が中心商店街の一角にあるにもかかわらず、また石ノ森漫画館が近いにもかかわらず、それが生かされていないことも疑問です。“子どものまち・いしのまき”の取り組みも「1年1回で良いのかな?」とますます思うようになりました。

 中心商店街をあとにし、引き続き国道398号線を進みます。“石巻まちなか復興マルシェ”の北側を通り、旧北上川に架かる内海橋を渡ります。ここも国道398号線です。橋を渡ってすぐに八幡町1丁目の交差点(下の写真左)です。この交差点は3回目の通過です。ここを右折します。いよいよきょうの目的地である湊地区に入ります。道は引き続き国道398号線です。

   

 道路両側は空き地が目立ちます。雑草が生えています。(上の写真中で)道路右側に瓦礫が見えますが、これは今工事しているのでしょうか。(上の写真左では)左手にコンビニです。2011年4月22日にはありませんでした。
 2011年4月22日には無数にあった瓦礫や破壊された建物・打ち上げられた船舶は、だいぶ無くなりましたが、空き地や空間を見ますと、ほとんど復興は進んでいない、と感じます。

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 緩い左カーブが終わり、真っ直ぐな道路になったところで、前方に歩道橋が見えます。(下の写真左・右)見慣れた歩道橋です。ついに石巻市立湊小学校前に到着しました。ただ、周りの景色は少し変わりました。歩道橋の脇に流された住宅は撤去されました。湊小学校向かいの破壊された飲食店も撤去されました。

  

 湊小学校を正門から入りました。2011年4月22日当時、駐車場だった体育館南東側は、砂利が敷かれています。駐車場はその南側へ移っています。2011年4月22日当時、瓦礫などが積まれていた場所です。原則的には、工事関係者用の駐車場ですが、土曜日のためでしょうか、ほとんど空いていました。
 さて、肝心の小学校は、工事が行われ、囲いで覆われています。囲いには“湊小学校災害復旧その他工事”と表示されていました。

 それで、囲いがない国道398号線側から湊小学校を観ることにしました。その前に、正門右側(南側)に咲いている花を撮影します。(下の写真左)

  

 2011年4月22日以来、間近で見る石巻市立湊小学校です。でも、そんなに久しぶりには感じません。それは、映画“石巻市立湊小学校避難所”山形県上映会を行ったからでしょう。上映会から10ヶ月は経過しましたが、脳裏にしっかり刻まれているためでしょうか、昨日のように感じます。

  

 それにしても、どこにでもある小学校の校舎なのに、どうして感情がわき起こるのでしょう。校舎の時計は、津波が到達した午後3時49分頃を示したままです。校庭ではパワーショベルが作業をしています。
 道路沿いに北へ移動します。道路沿いには流された車などはありませんが、あの日のことを漂わせます。整備されたとは、とても言えません。プールには雑草が生えていました。(上の写真右)

  

 (上の写真左・右)歩道橋にのぼって撮影します。私が歩道橋にのぼるのは初めてです。この歩道橋からの映像は、映画本編には使われておりませんが、予告編には出てきます。上の写真右では、体育館から校舎を結ぶ通路の屋根にも作業員がいます。清掃しているように見えます。
 体育館(下の写真左)をよく見ますと、壁がほとんどなく、透けている状態です。

  

 歩道橋で撮影を始めたところ、まもなく防災無線のスピーカー(上の写真右)からアナウンスが流れてきました。内容は次のとおりです。

 こちらは防災石巻広報です。明日10月6日午前7時から午前8時の間に、石巻市総合防災訓練を実施します。訓練のため、防災無線によるサイレンや臨時放送を行いますので、本当の災害と間違わないようご注意ください。

 それにしても、ゆっくりしたアナウンスです。

 歩道橋から湊小学校避難所周囲の風景を撮影します。

  

 北西方向(上の写真左)、南東方向(上の写真右)を撮影します。道路は国道398号線です。湊小学校前の風景も変わりました。湊小学校向かいの幼稚園もありません。

  

 (上の写真左・右)日和山を撮影します。西南西方向です。さきほど日和山から湊小学校を望んで撮影した場所は上の写真右です。右側の鉄塔には、NHKのお天気カメラが設置されています。

 歩道橋を下りて、体育館側へ移動します。2人の作業員が声を掛け合っていました。配線工事のようです。
 小学校脇の寺院・墓地も見ました。2011年4月22日は、体育館から見た墓地に衝撃を受けました。墓石は倒れ、その上に数多くの自動車が散乱していたからです。映画では、その後横浜へ引っ越しをしたKさん親子が墓参りするシーンがあります。そのシーンにも、同じ墓地の様子が映っています。
 今では、車は撤去され、一見すると元に戻った感じです。しかし、よく見ますと、欠けたままになっているものもあります。今回も一応は撮影しましたが、墓地については、掲載いたしません。

 石巻市立湊小学校・・・建物とは再会しましたが、誰もおりません。中途半端な思いです。小学校は子どもたちの声が聞こえての場所です。どうやら私は、再びこの地を訪れることになるでしょう。

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 石巻市立湊小学校をあとにして、国道398号線をさらに南東、そして東へ向かいます。行き先は、石巻市立渡波小学校です。“ワタノハスマイル”の小学校です。
 2012年12月8日、映画“石巻市立湊小学校避難所”山形県上映会の最終日、山形市(シベール・アリーナ)での上映会でも“ワタノハスマイル展”が開かれました。その日は、藤川監督と“ワタノハスマイル”の犬飼さんとの交流が実現した日でもありました。私を含めた3人は、夜遅くまで親交を深めたのであります。そんな縁もあって、今回初めてになりますが、渡波小学校まで足を伸ばすことにしたのです。
 “ワタノハスマイル”とは、あの日、津波によって渡波小学校・校庭に流れ着いた“町のカケラ達”を、渡波小学校の子どもたちが楽しいオブジェにしたものです。それは、悲しみさえも笑顔(ワタノハスマイル)に変えてしまうものです。現在も各地で展示会が開催されています。

 湊小学校から渡波小学校までは約4km離れています。初めてですので、かなり遠く感じます。海岸に近い道路(国道398号線)を東へ向かいます。きれいなスーパーもあれば、空き地や工事中のところもあり、景色の複雑です。

  

 歩道橋が見えてきました。このまま国道398号線を真っ直ぐ行きますと、すぐに女川町です。ここで左折します。ようやく渡波小学校に着きました。しかし、ここも工事中で囲いがあります。国道398号線に架かる歩道橋から撮影しました。

  

 上の写真左が歩道橋から北西方向に撮影した渡波小学校校舎です。上の写真左は校庭です。ここに流れ着いたもので、子どもたちはオブジェを作りました。ただ、誰もいない小学校で、工事中でもあり、湊小学校とは違って、そんなに思い入れは沸かず、淡々と撮影しました。
 歩道橋からは、渡波小学校の周囲も撮影しました。

  

 上の写真左は西南西方向です。国道398号線です。私たちが通ってきた道です。少し望遠で撮影しましたので、建物が密集しているようにも見えますが、空き地もあります。ただ、国道398号線の交通量はあります。上の写真右は南東方向です。寺院(宮殿寺)が見えます。その奥の建物は石巻市役所・渡波支所です。

  

 上の写真左は北東方向です。国道398号線はこの先女川町へ向かいます。上の写真右は北北西方向です。奥に渡波駅があります。左側に校舎の一部が写っています。横断歩道があるところが正門です。
 歩道橋を下りて、正門に戻ります。正門脇の掲示板(右の写真)に、10月の行事予定が掲示されていました。総合学習や学芸会などの行事が紹介されています。学校は機能していませんが、なんだか、心温まる感じがしました。地域と渡波小学校との結び付きを感じました。

 夕方5時です。湊地区に戻ります。国道398号線を戻ります。少し小雨が降ってきました。移動しながら、手付かずのところ、寺院でないのに道路沿いにある墓地など、わからない風景に、驚きの連続です。
 道路右側はネオン輝くアミューズメント店なのに、道路左側はほとんど手付かずです。(下の写真左)対照的です。(これが道路拡張計画に関係することは、このあとでわかりました)

  

 午後5時10分すぎ、湊小学校前の歩道橋が見えてきました。いよいよ、きょうの石巻市訪問での最大の目的地に到着です。(上の写真右) 湊小学校正門前から国道398号線を南東に200メートルほどのところです。

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 映画では、仮設住宅に住むことになったAiちゃんが、石巻市立湊小学校避難所を出るシーンがあります。2011年7月9日です。その時に、長持唄を歌い、Aiちゃんを送り出した人がいます。その人は東助さんと言います。
 2011年11月19日、“味の東助”が(再)オープンします。その名のとおり、東助さんのお店です。私たちが到着したのは、その“味の東助”です。この訪問記のはじめに「あるところ」と書きましたが、それが“味の東助”だったのです。
 映画では紹介されていませんが、藤川監督が執筆した書籍“石巻市立湊小学校避難所”には“味の東助・オープン”のことが記されています。その文面から、“味の東助”へ行けば、なんらかの交流ができると考えたわけです。
 “味の東助”の営業時間は午後5時からです。それで、訪問時間は午後5時以降にしたのです。

  

 薄暗くなりましたが、お店は電気がついています。営業しています。典型的な地域の小さな居酒屋という感じです。

 お店の中に入ります。右側にカウンター席があります。左側はテーブル3つが置かれている座敷です。東助さんはカウンター席にいました。
 東助さんとは初対面です。私は「山形・米沢から来た者です」と申し上げ、ある教育機関が発行した機関誌(機関誌には、藤川監督と私の原稿、それに藤川監督と私がいっしょに写っている写真が掲載されています)を示しながら、私が映画“石巻市立湊小学校避難所”山形県上映会を開催したこと、藤川監督と交流があることを紹介しました。奥の厨房で仕事をしている東助さんの奥さんも顔を出されました。
 こうして、私と東助さんとの談義が始まりました。(写真は私と談義する東助さんです)

 東助さんがこの地で居酒屋を始めて40年です。地元でも評判のお店です。
 お店が再オープンできたことについて、東助さんは「皆さんの力があってのことです」と言います。食材は震災に遭わなかったところから仕入れています。

 あの日(2011年3月11日・午後2時46分)、東助さんはお店にいました。津波が来ることはすぐにわかりました。東助さんは近所の人たちを避難させました。その内、お店前の道路(国道398号線)が車による大渋滞となりました。東助さんは「車を捨てて逃げなさい」と呼びかけました。しかし、1台も相手にしてもらえませんでした。「みんな流されたのでしょう」と東助さんは言います。
 そうしている内、津波が来ました。東助さんは2階へ駆け上がりました。瓦礫や流されてきた住宅・建物が東助さんの店舗兼住宅にぶつかりました。津波は2階の床上30cmまで到達しました。
 東助さんの店舗兼住宅は奇跡的に流されることなく残りました。流された瓦礫や住宅によるキズは今もこの建物に残っています。なぜなら修復できないからです。(修復できない理由はあとで出てきます)
 
 東助さんの町内は80世帯です。20名が亡くなりました。このあたりは湊地区では商店などが最も多かったところです。

 家は残りましたが、床上30cmまで浸かりましたので、住めなくなりました。畳などは処分し、石巻市立湊小学校避難所での生活が始まりました。そして、避難所が閉鎖される日(2011年10月11日)まで湊小学校で生活しました。
 この間、住めない状態でしたが、藤川監督は何度か2階に泊まりました。当時の藤川監督は車中泊が多かったので、泊まってもらいました。ただし、畳はありませんので、毛布で睡眠をとりました。それから、ボランティアの人も泊まりました。(ボランティアについてのエピソードはあとで出てきます)

 東助さん夫妻は、現在も仮設での生活です。店(味の東助)には通っています。現在、店の2階にはベッドだけ置いて、泊まれるようにだけしています。飲んだ時はここ(店)に泊まります。でも、ここには風呂がありません。風呂に入るため仮設に行きます。

 店の前の道路(国道398号線)について拡張計画があります。拡張はこの店も1メートルかかります。しかし、石巻市からは、具体的な話は、今もってありません。これでは、どこまで取り壊すのかも、決められません。だから、修復もできないのです。本当なら新たな店舗を建て、そこでも営業を始めてから取り壊したいです。でも、具体的な話がない限り、それも計画できません。
 拡張は道路の西・南側だけです。だから、反対側では動きがあります。
 湊地区では、ほかにも区画整理の話があります。町内としては同意しましたが、これも具体的な話はありません。だから、動けないのです。
 この店も仮営業のような状態です。床屋のSさんも同じでしょう。営業はしていますが、落ち着いた営業ではありません。石巻市から方針を示してもらえば、みんな動けるのですが・・・と湊地区の人たちは思っています。
 あと何年かかるのでしょう。しかし、このような状態で5〜6年もかかるようでは困ります。

 私の「今後も湊地区に住みたいと思う人は多いですか?」という質問に、東助さんは「でもないね」と答えました。
 石巻市ではアンケートを実施しました。アンケートには、いろいろな選択肢がありました。例えば、湊地区の土地はそのまま保有し、別に新たな土地を求め、そこに住む、というものです。しかし、「湊地区にある土地は売りたい」という人が、石巻市の想定より遥かに多くなりました。その理由は、石巻市が示す計画が進まず、嫌気が差したからです。
 旧北上川にしっかりした堤防が造られ、計画方針も示され、湊地区は「安全です」と示せば、湊地区に残る人が多くなるのですが、進まなければ、津波の怖さだけが残り、戻りたくない人が多くなります。本当は故郷が一番なのですが・・・。
 そう言う東助さんですが、「自分はここに住み続けます」と言います。

 この近くに災害公営アパートが建設されます。9階建て2棟、7階建て1棟です。今月(2013年10月)から工事が始まりました。160戸分入居できます。おそらく申し込みは多いでしょう。ただし、仮設と違って、家賃はかかります。
 そのアパートの周囲に一戸建てが増えれば、街並みは形成されるでしょう。しかし、何年もかかるのでしょうか・・・と将来を見通せないことに不安を募らせる東助さんです。

 “湊小学校災害復旧その他工事”は最近始まったばかりです。入札が不調だったためです。業者・役所の双方が歩み寄り、ようやく工事が始まりました。来年の4月から使用できるように、工事を進めると思います。職員室や教室は2階以上に設け、1階はあまり使わないようにします。

 1週間ほど前、映画に出ているYちゃん一家が、ここを訪れました。
 Yちゃんは湊小学校から別の小学校へ転校しました。Yちゃんは現在小学6年生です。来年4月からは、湊地区の中学校に通うそうです。おとうさんは「毎日送るんだ」と言っています。湊地区の中学校では、小学校の友達といっしょの学校生活を送れるからです。

 私たちが到着する1時間ほど前(2013年10月5日・午後4時頃)、Cさんが来ました。そして、右の写真の花を置いていきました。「花からはまだ湯気がたっています」と東助さん。
 映画では、Aiちゃんとやり取りするCさんのシーンがあります。CさんはAiちゃんからの自転車注文に対応しています。そこは、東助さんの家(味の東助)の一角でした。
 Cさんは、京都から個人のボランティアとして湊小学校に来ました。そして、“その子供サイクルぅ”という名前で、自転車修理を行いました。
 やがて、石巻市立湊小学校避難所が閉鎖になるという話が出て、自転車はたくさんある、仕事もたくさん残っている、でも行く場所がない、ということから、東助さんはCさんを家に連れてきました。こうして、“その子供サイクルぅ”の二号店が東助さんの家の一角にオープンしました。Cさんは東助さんの家の2階に住むようになりました。
 その後Cさんには彼女(南相馬市でのボランティア活動で出会った人です)ができたということで、石巻のアパートに住むようになり、現在は2人で東京に住んでいます。

    

 Cさんはイラストも得意です。外にある看板、店の中のイラストや開店を告知するポスターは、Cさんが手掛けました。Cさんは絵本も手掛けています。(Cさんのイラストは映画のパンフレットでも見ることができます。また、先にご紹介した“石巻まちなか復興マルシェ”の地べたにもCさんのイラストがあります)
 Cさんが東助さんの家(ここ)に泊まっていた時には、Cさんの知り合いも泊まったことがありました。時には15人が泊まったこともあります。だから、きょうは恩返しの思いがあって、来られたのでしょう。本当に久しぶりです。
 きょうは所用で石巻に来たそうです。ただ日帰りだそうで、Cさんは「次はゆっくり来ます」と言っていきました。

 湊地区にある2軒のコンビニ(S)は、同じ人が経営しているものです。でも、夜10時には店を閉めます。今の湊地区では、深夜開けていても客は来ないからです。それは周りの人たちも認めています。夜になれば、湊地区は、ほとんど真っ暗になります。
 空き地には雑草が生い茂っています。でも、1年前はそうではありませんでした。
 だから、湊地区の来られる人は「ほとんど進んでいないですね」と言います。でも、復興は「少しずつ」です・・・と言う東助さんからは、現実は厳しいものの、「希望は捨てていない」思いが伝わってきました。

 いつの間にか、午後6時30分です。お客さんが入ってきました。それも次々にです。カウンター席も、テーブル席もほとんど埋まりました。正直、周囲の風景を考えますと、お客さんの入りが心配だったのですが、土曜日とは言え、凄い入りです。東助さん夫妻、大忙しです。私たちも焼き鳥を注文しました。焼きたてもあって、とても美味しいです。こんなに美味しい焼き鳥は久々です。アルコールは飲めませんが、満足です。
 でも、“味の東助”も午後10時で閉店です。お客さんの多くは、2時間もいない内に、お店を出ました。それでも、これだけのお客さんが入り、にぎやかな声が飛び交います。今の湊地区では、とても貴重な場所なのでしょう。

 午後8時15分、私たちは“味の東助”を出発しました。
 お店を出る前、東助さんには「湊地区の様子は、これからも見ていきたいです。次は、湊小学校が再開したことを、自分の目で確かめたいので、来年春には再びここを訪れます」と申し上げました。なぜなら、石巻市湊地区は、私にとって、故郷のような思い入れのある場所だからです。

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 2011年4月22日は湊小学校を往復しただけでしたので、石巻市をじっくり拝見したのは、きょうが初めてです。途中で思わぬ出会いもありました。東助さんとも長い時間談義できました。湊小学校とも再会できました。そういう意味では、楽しい訪問でした。
 しかし、石巻市を巡って思ったのは、石巻市としての意思があまり感じられない、ということです。それは、例えば、地域による風景や雰囲気の違いが大きいことです。チェーンの居酒屋ばかりが営業しているという駅前の風景からも感じます。
 東助さんから話があった道路拡張・区画整理の問題で示された石巻市としての意思(方針)については、映画でも2つのシーンで紹介されていました。つまり、あれから2年経った今も石巻市としての意思(方針)が見えないのです。

 もうひとつ気が付いたことをご紹介します。石巻市内を移動中は、いしのまき災害エフエム(臨時災害放送局、事実上の運営はコミュニティFMのラジオ石巻)を聴いたのですが、聴いた範囲では、臨時災害放送局という感じはいたしませんでした。夕方は、ラジオ3(仙台市のコミュニティFM)が制作したベガルタ仙台の静岡県での試合の模様を生中継していました。
 もちろん、臨時災害放送局だからと言って、災害情報・復興関係の情報ばかり放送する必要はありません。心の復興のためには、いろいろな番組があるべきです。ベガルタ仙台中継も、元気・勇気につながるなら、とても良いことです。
 しかし、かなりの時間聴いたのですが、臨時災害放送局としての使命を感じることができませんでした。それは、番組表(タイム・テーブル)を見ても感じます。平日の生放送は午前10時から午後6時までだけです。午後には“復興へ1・2・3!はつらつ・らじいしワイド”という生ワイド番組がありますが、番組表を見る限り、一般のコミュニティFMと変わりありません。
 コミュニティFMが出力20W以下に制限されているのに対し、臨時災害放送局であるいしのまき災害エフエムの場合は100Wで放送中です。私も通常より受信エリアが広がっていることを実感しました。いしのまき災害エフエムは、このことを自覚しなければならないと感じました。

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 現状は厳しいです。しかし、石巻の人たちは懸命に生きていました。それは、何かを信じているようでもありました。“子どものまち・いしのまき”には大勢の子どもたちが集っていました。そして、東助さんは、湊地区の復興について、笑顔で「少しずつ」と言いました。
 私は「信じること」を学びました。だから、これからも、石巻を、そして湊地区を訪れようと思ったのです。

 避難所になっていた時には、夜になっても明るかった湊小学校。周りが真っ暗でしたので、余計に目立ちました。私たちは、その湊小学校を通ります。でも、きょうの湊小学校は真っ暗です。
 米沢までは、長い道のりです。
 

 

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