おきたまラジオNPOセンター・ひとりごとダイアリー

 

2022年11月20日(日曜日晴れ薄雲浮かぶ のち曇り

【高橋卓也さんお別れの会】
 “高橋卓也さんお別れの会”が山形市内(山形国際交流プラザ:ビッグウイング)にて執り行われました。
 高橋卓也さんは、10月17日のひとりごとダイアリーでご紹介していますが、10月15日に急死されました。高橋卓也さんは、山形国際ドキュメンタリー映画祭をを立ち上げ、長年にわたり事務局長として大活躍。後進に道を譲るとして事務局長を辞したあとは、プロデューサーとして大活躍していました。山形を代表する映画人のひとりです。
 私が高橋さんと最後にお会いしたのは、今年の4月16日、米沢市・伝国の杜で開催された佐藤広一監督のドキュメンタリー映画『紅花の守人 いのちを染める』上映会でした。下の写真は、その上映会での高橋さんです。

  

 10月14日、岡崎孝監督の奥様が米沢市にある避難者支援センター“おいで”を訪問しました。岡崎孝監督の最近の作品は、ドキュメンタリー映画“東北の力 文化の力”(2022年、99分)があります。同時刻に“おいで”を訪問した私は、岡崎さんと再会することができました。そこでは、ドキュメンタリー映画に関するいろんな話をしました。そして、高橋卓也さんの話も出ました。
 私は、ドキュメンタリー映画“石巻市立湊小学校避難所”の山形県上映会でお世話になったことや、高橋卓也さんあっての原村監督との親しい付き合いのことなどを紹介し、私にとっても高橋卓也さんが大きな存在だったことを申し上げました。
 高橋卓也さんは翌日(10月15日)に亡くなりました。訃報に接した時、私は怖さを感じました。身震いしました。見えないものに押しつぶされているのではないか、と思いました。軽々しく高橋さんのことを口にしたことで・・・などとも悩みました。
 その岡崎さんもお別れの会に出席しました。

 お別れの会は、伊藤光一郎さん(認定NPO法人山形国際ドキュメンタリー映画祭理事長)、長澤裕二さん((株)フォーラムマルチプレックスシアターズ 代表取締役社長)、阿部啓一さん(特別養護老人ホームなごみの里 施設長)が発起人となって、執り行われました。
 お別れの会には県内外から約300人が集まりました。私がわかった範囲では大阪からの参加もありました。福島県天栄村からはYさんらが駆け付けました。天栄村は、原村政樹監督のドキュメンタリー映画“天に栄える村”を通して、高橋さんとつながりがありました。Yさんによると、高橋卓也さんは、村役場を訪れていたそうです。
 その原村監督もお別れの会に駆け付けました。私は(思ったとおり)原村監督の保護者となりました。真夜中12時(24時)になっても原村監督と一緒です。詳しいことは、のちほど・・・。

 お別れの会は午後2時30分すぎに始まりました。司会は山形国際ドキュメンタリー映画の理事でフリーアナウンサーの香坂あかねさんです。
 はじめに全員で黙祷です。そのあとは、発起人のひとりである伊藤光一郎さんの挨拶、佐藤山形市長の弔辞がありました。
 続いて、佐藤広一監督が制作した“高橋卓也さんを偲んで〜メモリアル映像上映〜”がありました。上映中は、会場からすすり泣きが聞こえました。
 さらに、関係者・友人などによる追悼おくる言葉です。阿部啓一さん、佐藤広一さん、塚田孝之さん(YIDFF東京事務局)、裏山克彦さん(映画と山の仲間)、親子映画の会カンガルーポケットの人たちがスピーチしました。
 最後に、発起人のひとりである長澤裕二さんの挨拶がありました。
 そして、全員が献花をし、お別れの会は終了しました。

  

 写真左は、佐藤広一監督が追悼おくる言葉を述べている場面です。写真右は献花です。
 あらためて、高橋卓也さんの功績の大きさを感じました。それは単に映画に貢献しただけではありません。人を大切にし、人とのつながりを構築していったことです。だから、これだけの人たちが集まったのです。会場では私も数多くの人と再会できました。そう思うと、ますます残念でならない思いが強くなります。胸が詰まりました。

 夕方6時からは山形市内で食事会が開かれました。ここでも100人ほどが集まりました。原村監督とは向かい合わせに座りました。隣りは荒井幸博さんです。ほかに、阿部啓一さん、佐藤広一監督、佐々木亜希子さん(活動弁士、酒田北前大使)が同じテーブルでした。ここでは、原村監督からある提案がありました。私はそれに付け加え、“高橋卓也さんを偲んで”をあわせて上映することを提案しました。また、佐々木亜希子さんともいろんな話ができました。

 夜9時頃からは場所を変えて二次会です。ここでは、大阪から来られた人たちと交流することができました。私が豊中市や和歌山県湯浅町と関係があることを紹介すると、関心を持って聴いてくださいました。

 さらに夜11時をすぎて三次会です。三次会は原村監督と渡辺智史監督です。七日町のようです。ここで、原村監督のチョー熱血トークが炸裂です。この状況で、真夜中12時を迎えました。
 翌日(11月21日)になっても熱血トークは続きます。高橋卓也さんの訃報は、原村監督にとっては猛烈に悔しい思いです。原村監督は高橋さんを「大馬鹿者」と言います。それは、原村監督からの健康に関する忠告を聞かなかったからです。
 午前1時をすぎました。私は原村監督をホテルまで送り届けることにしました。
 店を出るその時、原村監督は渡辺智史監督の前で、とうとう泣きました。それが原村監督の本音です。今まで、堪えていたのです。
 私は原村監督を抱えるようにして、店を出ました。弱いながら雨が降っていました。お店の人から「タクシーを呼んだら」という声がありました。でも、私は原村監督と、弱い雨が降る中、深夜の山形市を歩くことにしました。なぜなら、原村監督の思いを受け止める時間が必要と思ったからです。そこには、1人の人間としての原村監督がいました。自分をさらけ出した原村監督がいました。それを受け止める人がいなかったら、原村監督は、悔しい思いを少しでも癒すことなく、山形から戻ってしまうことになるからです。
 距離にして約1kmほど歩きました。歩きながらも原村監督は話し続けました。自分を責める場面もありました。原村監督のこの思いを受け止める人がいなかった・・と思いました。やっぱり歩いて良かったのです。
 午前1時30分頃、原村監督のホテルに着きました。こうして、無事にホテルに送り届けることができました。

 ここから私のホテルまで約700メートルです。弱い雨はまったく気になりません。寒くもありません。それは、人間としての本当の意味での付き合いができたかな・・と思ったからです。清々しい気分でもあります。嬉しくもありました。
 ここでも高橋卓也さんに感謝です。天から見ていてくれたかな・・・。

 

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