おきたまラジオNPOセンター・ひとりごとダイアリー

 

陸前高田訪問記:2024年2月18日〜19日

 

2024年2月18日

2024年2月19日

 

2024年2月18日(日曜日)陸前高田の天気:晴れ 夜少し浮かぶ

【陸前高田訪問記】
 岩手県陸前高田市を訪問しました。
 2024年1月13日と14日、山形国際交流プラザ(山形ビッグウィング)で山形コミュニティファンド補助事業“コロナ禍、震災…苦難を乗り切る映画の知恵”上映会とステージトーク(主催:映画で男女共同参画を考える会)が開催されました。これについては、こちらをご覧ください。
 この中で、1月14日に上映の映画“東北の力 文化の力”で、最後の場面に登場したのは、陸前高田グローバルキャンパスで活動する久保玲奈さんでした。久保さんは上映後のトークに出演するため、陸前高田市から駆け付けました。私は上映会の関係者になったことで、控室でも久保さんといろんな話をすることができました。
 そうこうしているうちに、陸前高田市へ無性に行きたくなりました。それは、陸前高田グローバルキャンパスの場所がすぐわかったこともありますが、最後に訪問した2019年7月以降、陸前高田では伝承館や道の駅ができたり、高田松原の再生プロジェクトが進んだりするなど、さまざまな動きがあったことをニュースなどでみており、以前から行きたいとは思っていたこともあります。
 しかし、コロナ禍があって、いつの間にか5年が経っていました。それが久保さんと出会ったことで、行きたいという思いに火が付いたのです。この冬は暖冬で、2月でも行きやすいという条件も見方になりました。

 まず、陸前高田市についてご紹介します。岩手県の南東部に位置します。三陸沿岸では岩手県において最も南です。現在の人口は17,000人あまりです。東日本大震災では津波により高田町など中心市街地が壊滅。犠牲者(行方不明と関連死含む)1,761人です。これは石巻市に次いで2番目に多いです。

 午前4時すぎ、米沢を発ちました。天気にも恵まれました。休憩しながらも、順調に移動です。仙台市付近では水平線から昇る真っ赤な朝日を見ましたが、チラッと見ただけで、運転に集中しました。登米市付近では霧が発生していましたが、走行には支障なしです。
 やがて気仙沼市に入ります。5年前はこのあたりから三陸道は未開通部分がありました。それが現在は全線開通です。下の写真左は気仙沼港インターチェンジを過ぎたところです。初めて通ります。左に気仙沼の市街地が見えます。右奥は気仙沼湾横断橋です。写真右はその橋を渡るところです。ここで気仙沼湾を一気に通り抜けます。

  

 気仙沼を通り過ぎると陸前高田です。陸前高田長部インターチェンジで三陸道を出て、国道45号で陸前高田に入ります。5年前とはガソリンの消費量が違います。かなり少なくなりました。
 いよいよ陸前高田です。その道路(国道45号)も新たにつくられていました。気仙大橋(下の写真右)を渡ります。周りの山並みは変わりありませんが、伝承館や道の駅ができたことで、5年前とは違う雰囲気です。

  

 写真左が伝承館や道の駅です。左側が東日本大震災津波伝承館、右側が道の駅高田松原です。伝承館のオープンは午前9時なので、少し休憩です。

  

 まずは東日本大震災津波伝承館(いわて TSUNAMI メモリアル)の見学です。上の写真右と下の写真が伝承館内です。撮影可能な範囲で撮りました。伝承館は、歴史をひもとく、事実を知る、教訓を学ぶ、復興を共に進める・・・という4つのゾーンで構成です。それを数多くの展示物をはじめ、動画放映や災害対策室の再現などで伝えています。下の写真左は消防車両、写真中は津波で流出した気仙川に架かっていた橋です。

  

 これらを1つ1つ(すべてを)丁寧に見て回るとなると、相当な時間がかかります。それによって大きな学びになるのでしょうが、私のような脳ミソではパンクしそうです。それより疲れてしまいそうです。一気に観るのではなく、何回かに分けた方が、記憶に残りそうです。でも、遠方の私には、それができません。難しいです。
 それでも印象に残ったものはあります。そこは手記が展示されているコーナーです。そのひとつは、臨時災害放送局(災害FM)りくぜんたかたさいがいエフエムにボランティア・スタッフとして関わった人の手記です。その手記では、ラジオを通じて人とのつながりを構築することができた喜びなどが記載されていました。これを読んで、能登半島地震で臨時災害放送局の動きがまったくないことについて、あらためて気になりました。
 ここの伝承館は入場無料です。

  

 伝承館と道の駅の裏側(南東側)に向かいます。つまり海側に向かいます。上の写真左の奥が海を望む場、写真右が海を望む場から見た伝承館と道の駅です。このあたりは津波復興祈念公園として整備されました。

  

 海を望む場からの風景をご紹介します。上の写真左は北北東向きで、高田町の中心部方向になります。手前は古川沼です。上の写真右は東北東向きで、右手に高田松原と海が見えてきました。

  

 上の写真左は東南東向き、上の写真右は南南東向きです。松は順調に生育しているようです。

  

 上の写真左は南南西向き、上の写真は西南西向きです。奥に奇跡の一本松が見えます。

  

 高田松原を通って、海の近くに下ります。波の音が間近です。

  

 上の写真が奇跡の一本松です。この周囲も整備されました。上の写真左は西向きの撮影です。一本松の奥にみえるのは気仙町の愛宕下や三本松地区です。この名前は、あとでも出てきます。上の写真右は南東向き撮影です。

 下の写真は伝承館の東北東側にある旧道の駅高田松原です。現在は震災遺構タピック45として保存されています。

  

 このあとは高田町の中心部に向かいます。この時間になって、かなり暖かくなりました。2月とは思えない陽気です。国道45号を東北東に向かい(下の写真左)、野球場などがある高田松原運動公園近くで左折し、シンボルロード(下の写真右)を北上です。写真の右側は野球場(楽天イーグルス奇跡の一本松球場)です。

  

 アバッセたかたなどがある中央部に着きました。
 下の写真左はまちなか広場です。日曜日ということで多くの子どもたちが遊んでいます。右側に写っているこのような表示はあちこちにあります。

  

 写真右はお昼を食べたお店の前にある表示です。これは「一緒に逃げよう」ではなく「てんでんばらばらになっても、とにかく高台へ逃げろ」です。伝承館で学んだことです。三陸地方の言い伝えです。

 近くにある陸前高田市立博物館を見学です。久保さんお勧めのスポットです。

  

 中に入ると、ロダンの“考える人”がお出迎えです。噂どおり、大きいです。奥にはもう1つの像です。柳原義達の1977年の作品“岩頭の女:がんとうのひと”です。

  

 ここは旧市立博物館と海と貝のミュージアムを受け継いだ施設です。「陸前高田の豊かな海・山・川・大地、そして、そこに生きる人々の姿・営み」がコンセプトです。それは陸前高田の人たちが大切にする宝です。ここでは、陸前高田を知ることができますし、陸前高田を愛する市民の思いを感じることができます。「大地の成り立ち」から「ふるさとの宝は失われていない」などのテーマで構成されています。それも曲線的な区割りで構成しており、ゆったりした気分で見ることができました。

  

 陸前高田市立博物館の屋上は展望デッキです。ここからの眺めをご紹介します。

  

 上の写真左は西北西向き、上の写真右は北向きです。奥にまちなか広場がみえます。

  

 上の写真左は北北東向きです。アバッセたかたなどがみえます。奥は陸前高田市役所です。上の写真右は東北東向きです。陸前高田市民文化会館奇跡の一本松ホールが見えます。

  

 上の写真左は東南東向きです。右奥はJR陸前高田駅です。しかし、線路はありません。JRはバス高速輸送システム(BRT)を運行しています。
 上の写真右は南南東向きです。中央に見えるのが震災遺構・米沢商会です。米沢商会の場所はかさ上げしていません。海抜は80cmです。米沢商会は米沢さんが経営している包装資材などを販売している店です。ここからは各社から報じられている内容を基にご紹介します。米沢さん、津波襲来を悟り、咄嗟に建物の最上部・煙突に逃げました。僅か1平方メートルです。津波はその僅か10cmまで迫りました。こちらの写真では津波到達位置を矢印で示していることがわかります。まさにギリギリです。米沢さんは助かりました。しかし、家族は避難先で津波により亡くなりました。米沢さんは「津波はここまで到達したことを伝えたい」という強い思いがあり、自力で震災遺構にしました。その米沢商会の右奥には伝承館と道の駅がみえます。

  

 上の写真左は南南西向きです。右側奥の小高い丘に住宅が建ち並んでいます。ここが気仙町の愛宕下や三本松地区です。2回目の登場です。上の写真右は南西向きです。手前はピーカンナッツ畑です。

  

 上の写真は市役所です。写真左は博物館屋上からの撮影、写真右は市役所の北側駐車場で撮影です。5年前の市役所は高田町鳴石に仮設の建物でありました。市役所は7階建てです。その7階には日曜日でも行くことができます。私がそれを知ったのは翌日です。詳しくは明日ご紹介します。

 今回の目的地、陸前高田3.11仮設住宅体験館を訪れました。場所は米崎町です。アバッセたかたからほぼ東へ約2.7kmです。海抜は27メートルです。

  

 ここは中学校だったところです。上の写真左が仮設住宅体験館です。校庭の南側です。上の写真右が校舎です。校庭の北側です。左手に体育館があります。震災後、校庭には仮設住宅が建てられました。仮設住宅は次第に増え、校庭を埋め尽くしました。子どもたちは身体を動かず場を奪われました。ストレスを抱えました。
 その後、中学校は廃校になりました。校舎は陸前高田グローバルキャンパスとして利活用されています。そして、仮設住宅の一部を体験館として活用しています。運営は一般社団法人トナリノです。久保さんもトナリノのスタッフです。久保さんは、防災士・陸前高田市防災マイスターでもあります。

 まず、仮設住宅の中を見せてもらいました。下の写真左は居間、写真右はキッチンですが、すぐ脇が玄関(出入り口)です。ここに7人が住んでいました。ほかにもう一部屋と風呂場・トイレがありました。7人ではかなり狭いです。

  

 仮設住宅体験館では、見学、語り部、宿泊研修という3つのメニューがあります。私は見学と語り部を予約しました。見学は無料ですが、語り部は有料です。語り部は、実際に仮設住宅に住んでいた人が、その時の体験談を語るものです。陸前高田は最も早く仮設住宅を着工したところです。3月19日には着工開始、3月30日には第1弾が完成しました。はじめは学校の校庭に建設しましたが、やがて場所が無くなり、民間所有の土地まで借りることになりました。仮設住宅では必ず、代表者、(自治)会長、事務局等の選任を求められました。市からの情報・連絡などを伝える役割を担うからです。支援物資の受け渡しも担いました。
 語り部は5人います。私に語ってくださったのは、震災当時44歳の女性で、陸前高田では最も多い150戸の仮設住宅で事務局を担い、支援者からの連絡窓口などを行ったそうです。
 着工は早かった仮設住宅ですが、建材はわん曲しており、隙間だらけでした。冬寒く、夏は暑いです。夜は熟睡できないことが多かったです。隣りからは、ちょっとした音も聞こえました。そんな仮設住宅に、長い人で10年間住んだ人もいました。
 それで思うのが、能登半島地震の仮設住宅です。木の温もりを感じ、三重の防寒対策です。
 そんな仮設住宅暮らしでしたが、山形県酒田市や新潟など多くの人からの支援があり、とても嬉しかったそうです。聴きながら思ったのは、それはその人の普段の行動や人柄によるもの、ということです。これが最も印象に残りました。大きな収穫です。
 陸前高田のお祭りと言えば、七夕だそうです。それも飾るだけではありません。気仙ではケンカ七夕と言って、山車をぶつけ合うそうです。花火大会は5月と10月の2回です。

 語り部からの話が終わったところで、久保さんと再会です。久保さんは陸前高田グローバルキャンパスでの研修プログラムに対応していました。
 久保さんには特別に陸前高田グローバルキャンパスを見せてもらいました。3階では避難所の再現や避難生活での備蓄品が展示されていました。そこでは、避難所での1人あたりのスペースが示されていました。寝返りもできないほどです。なんでも、数日後には東京都内の大学の学生がここを訪れ、久保さんの講義により、体験学習を行うそうです。必要だと言われる備蓄品も、実際に展示されていると、実感できます。
 2階は震災前の陸前高田の街並みが復元模型で再現されたものが展示されています。ようやく震災前の陸前高田を知ることができました。これまた大きな収穫です。震災前には鉄道があり、陸前高田の駅があり、駅前通りを中心に、市街地が広がっていました。それが津波で壊滅しました。
 模型では建物1つ1つに所有者の名前が表示されています。私が「浪江町の請戸小学校にも同じような模型があり、建物1つ1つに名前が表示されています」と言いますと、久保さんは「昨日(2月17日)、請戸小学校と宮城県山元町の中浜小学校に行ってきたそうです。シンポジウムに出席するためでした」と言いました。シンポジウムとは、請戸小学校と宮城県山元町の中浜小学校(いずれも震災遺構)、そして陸前高田の高田小学校の震災当時、小学生だった人たちが集まって、中浜小学校にて開かれたものです。ところで、ここから請戸は相当な距離です。久保さんは「きょうの活動が終わったら、帰ってすぐ寝ます」と言っていました。お疲れ様です。

 なお、陸前高田3.11仮設住宅体験館は先日(2月7日)、震災伝承施設に登録されました。
 震災伝承施設とは、東日本大震災の被災4県と東北地方整備局などで構成する震災伝承ネットワーク協議会が登録しているものです。これで登録総数は344件です。震災伝承施設は、被災地の遺構・慰霊碑・モニュメントなどが対象で、これらの施設を結んだものを“3.11伝承ロード”としています。

 久保さんたちと別れたあとは、宿泊先のホテルにチェックインです。陸前高田での宿泊は初めてです。5〜6年前は気仙沼市に宿泊していたからです。
 薄暗くなって外出です。下の写真左のとおり、この時間も快晴です。アバッセたかた付近まで歩いていきました。途中、住宅などが点在です。空き地が目立ちます。せっかくかさ上げしたのに。下の写真右はアバッセたかたです。まだ多くの車が停まっていました。

  

 最初に向かったお店が下の写真左です。久保さんたちから勧められたお店です。中に入ると、中年と思われるご夫婦がいました。しばらくして、その2人から声をかけられました。私が単なる観光客ではないことを見破られました。
 私が仮設住宅体験館の話をしたら、お店のご主人が「口を挟んで良いですか」と言いました。私は大歓迎で「どうぞ、どうぞ」と言いました。
 お店のご主人によると、避難所のスペースは座布団2枚分だけです。これでは横になって寝ることもできません。ご主人は、陸前高田の仮設住宅において、入居第一号です。しかも、市から仮設住宅の代表に指名されました。それで、市からの情報などの受け渡しを担いました。矢沢永吉さんの大ファンというご主人の料理は最高に美味しいです。

  

 2軒目は、以前から気になっていたジャズカフェ サルーン h. イマジン(上の写真右)です。さぞ堅苦しいお店かなと思ったら、違っていました。私よりさらに年上のマスターは「他人のことなど気にしない。なぜ人は他人のことを気にするのか。そんなの、どうでも良いではないか。自分の生き方だけ考えている」と言います。それを貫くマスター。だからお店は1人で切り盛り。「余計な気を使うことがないので楽しい」と良い、お店は年中無休。1人暮らしを謳歌しています。
 マスターはオスカー・ピーターソン((Oscar Peterson:カナダ出身のピアニスト)でジャズに目ざめました。お店ではライブも行われます。でもマスターはライブには関わりません。演奏者には「ご自由にどうぞ」というスタンスです。
 特別に2階も見ることができました。2階には宿泊できるテントが5つ設置されていました。マスターは「いつでも泊まれますよ」と言います。久保さんも東京と陸前高田を往復していた時期、ここに何度か泊まったそうです。
 マスターの生き方・・・一見、人とのつながりを大切にしていないように感じますが、実はそうではありません。自分の考えを押し通しているのではありません。マスターのような生き方であれば、世の中から戦争は無くなります。ここでも大きな学びがありました。


2024年2月19日(月曜日)陸前高田午前の天気:晴れ浮かぶ

【陸前高田訪問記】
 今朝の陸前高田は雲が浮かんできました。宿泊先で見た朝焼けがきれいでした。暖かで、朝から冬物コートは要りません。
 この日、まず訪れたのが陸前高田市役所です。
 陸前高田市役所・・・震災前は現在のアバッセたかたの南側にありました。津波で庁舎は全壊。職員111人が亡くなりました。5月16日、コミュニティホール近くに建設したプレハブ庁舎で業務を再開。そして、現在の新庁舎で業務を開始したのは2021年5月6日です。ここは震災当時、高田小学校があった場所です。海抜は約13メートル。津波はここにも到達しました。現在の高田小学校は山側に移転、そこは海抜約51メートルです。
 総合案内の方が親切・丁寧に教えてくださり、エレベーターで7階に行きます。7階には展望室と展示室があります。それで土・日も入ることができます。
 下の写真は展望室からの眺めです。南向きです。野球場(楽天イーグルス奇跡の一本松球場)、市民文化会館、アバッセたかた、市立博物館などが見えます。奥には道の駅・伝承館も見えます。

  

 下の写真左が7階です。ここでは奇跡の一本松に関する市民活動を中心に展示しています。コンパクトでとても見やすいです。

  

 一角には、震災前の陸前高田の写真(上の写真中)と2021年4月撮影の写真(上の写真右)が展示されています。震災前では、陸前高田の駅の南側には水田が広がっています。現在の野球場あたりでは住宅などの建物があります。当時の市役所は右側にみえます。2021年4月撮影の写真では手前で空き地が目立ちますが、現在もあまり変わっていないです。
 このあと5〜6年前に訪れたコミュニティホールなどがある高田町鳴石地区に向かいました。下の写真左は、そこに向かう途中の高田町栃ヶ沢地内です。懐かしい風景です。下の写真左の右側がコミュニティホール、左側が陸前高田市消防本部です。消防本部は栃ヶ沢地内です。5〜6年前を思い出します。当時お世話になったNさんが現在は陸前高田から離れたところにお住まいとのことで、ちょっと寂しく、Nさんとは連絡を取り合っているものの、少し感傷的になりました。時間の経過を感じます。

  

 気仙川を渡り、気仙川の右岸にあたる気仙町に入りました。高台に入り、着いたのは下の写真左です。右側は陸前高田市立気仙小学校と気仙保育園です。ここが昨日ご紹介した気仙町の愛宕下や三本松地区です。震災前、ここは愛宕山でした。この山を切り崩し、その土はベルトコンベアで運ばれ、高田町でのかさ上げに使用しました。切り崩したあとは、住宅地として整備され、新たな小学校などがつくられました。

  

 一角に展望できる場所があります。上と下の写真5枚は、そこでの撮影です。ここからの展望は初めてです。気仙大橋、伝承館と道の駅、津波復興祈念公園や奇跡の一本松などが見えます。奥には高田町の市役所なども見えます。下の写真右は少し移動して撮影です。空き地と電柱が目立ちます。右端奥には市立博物館と市役所が見えます。

  

 下の写真左では、右側が愛宕下の住宅団地、左側が三陸道です。写真右は気仙大橋から見た気仙町の愛宕下や三本松地区です。

  

 お昼は再び道の駅高田松原を訪れ、お昼ご飯と買い物をしながら休憩です。
 これで陸前高田での滞在はおしまいです。初めて見ること・聴くこと・知ることがたくさんありました。多くの学びがありました。それもこれも、陸前高田の人たちの温かさによるものと思います。また訪問したいと強く思いました。

 午後は南三陸町に立ち寄りました。志津川インターチェンジを下りて、南三陸さんさん商店街に向かいます。5年前と違って、新たな道路が整備されていました。
 南三陸さんさん商店街の北側には南三陸311メモリアルがありました。5年間はここに道の駅をつくる話がありました。当時の私は少し疑問に思いました。結局、道の駅は白紙となり、南三陸311メモリアルとなりました。南三陸311メモリアルには展望デッキがあります。下の写真はそこで撮影です。写真左が南三陸さんさん商店街です。写真右は八幡川を挟んで西側に整備された震災復興祈念公園です。中橋を通って行くことができます。中央に南三陸旧防災対策庁舎が見えます。右端は祈りの丘です。撮影中、強烈な海風にさらされました。踏ん張っての撮影ですが、怖いほどでした。

  

 下の写真左が南三陸旧防災対策庁舎、下の写真右は祈りの丘から見た震災復興祈念公園です。

  

 下の写真は祈りの丘の頂上です。写真左は名簿安置の碑です。町内の犠牲者804人の名簿が収められています。

  

 1時間近くの滞在でしたが、南三陸町でも風化の防止、防災に関する取り組みが続いていいました。また、南三陸さんさん商店街が健在なのも特筆すべきです。仮設の商店街の多くが、その役割を終えて、無くなっていることを考えますと、なかなか凄いことです。道の駅が白紙になったことも大きいと思います。

 

HOME